皆様こんにちは。
今まで2回ブログ記事を投稿してくれていたBさんがライフワーカーから職業指導員となり、一般就職をし、ライフワークから卒業する運びとなりました。
今回この記事を代筆しています、Mと申します。
この記事は、Bさんがこれまで続けて書いてくれていたブログ記事の最後の更新となります。
この③が出なかった理由としましては、冒頭のようにBさんの取り巻く環境が変わり、時間が取れなくなったことが大きな要因です。
最終更新から時間がかなり経っておりますので①、②をご一読頂けると分かりやすいかと思います。
少々ややこしい紹介となりましたが、前回のブログの更新日が今年2025年1月24日、実に約11か月前の事ですので、様々なことが起こりました。どれもステップアップを重ね、成功したり失敗したりした結果ですので、心の中でおめでとうと思いながら読んでもらえると幸いです。
社会に馴染めなさを抱えていたデザイン学校卒業生がライフワークで働いた4ヶ月間①
Bさんのこれまでの人生と障害福祉サービスに辿り着くまでをまとめてあります。
社会に馴染んできたデザイン学校卒業生がライフワークで働いた半年間②
Bさんがライフワークで実際に働き感じたこと、ライフワークがどういう所かをまとめてあります。
補足情報
ライフワークでは
・主に動画編集を担当する人
・飲食店のメニューやチラシなど様々なデザインを担当する人
・厨房でライフワークの分とコワーキングの分の昼食作り、また依頼があればお昼にお弁当の配送などを担当する人
・持ってる特性上作業に集中できなくなったり、過剰に集中してしまうのを防ぐためいつもと違う作業をする人
(例.お隣のコワーキングスペース:es villegeの清掃や同グループが経営しているサウナの清掃、
経理作業…といってもごく簡単な領収書を日付順に並べたり、表計算ファイルに記入するなどです)
・それ以外の軽作業などを各メンバーの特性や希望の中から作業が割り振られます
ここからは先日行ったインタビュー内容を元に代筆し再構成されております
■ なぜ職業指導員になったのか
まず初めに、職業指導員になろうとは全然考えていませんでした。
“別に嫌ではないし、得意かもしれないけれど、特別な憧れはなかった”というのが本音です。
事業所の支援員、指導員さんが取ってきてくれた案件、デザインの業務を振ってくれる中で、「この情報もう少し詳しくいただけますか?」「これはこういう意味ですか?」といった確認が必要になる場面は何度もありました。
そのうち、ぼくの分だけでなく、デザインを担当している他のワーカーさんに届く情報も含めて、勝手にまとめて資料化したり、「こういう意図だと思いますが…」と支援員さん達に共有するようになりました。
また分からないところの相談に乗ったり、デザイン班で使っていたNotionというツールでネットワーク上に業務の抜けやミスを記録する仕組みを作ったりと、自然と全体を整える動きをしていました。
そんなこんなやっているとちょうどライフワーク側からお声がけいただきました。ぼくも「ステップアップしたい」と伝えていたタイミングが重なった形になります。
実は、入所時から「週5フルタイムで働ける体力をつけたい」という目標を話していたのですが、利用者のままだと勤務時間を伸ばす事は難しいこと、更にクライアントとの対応も行い実践力を身につけて行きたいという思いもあり「職業指導員になろう」と決めました。
■ 職業指導員になるまでに大変だったこと
今年の3月から正式に指導員になることが決まり発表したのですが、1〜2月は「移行準備期間」としてワーカーさんへの業務サポートを増やして行きました。
しかし、その頃のぼくはとにかく緊張していて、肩に力が入りまくっていました。「ちゃんとしなきゃ」「正しくあらねば」と自分にプレッシャーをかけ過ぎてしまいました。当時は週5フルタイムにもまだ体力が追いつかず、業務量も増え、「やらなきゃ」という気持ちばかりが先走り、その結果あっという間に限界を超えパンクしてしまいました。
特に、Instagramのワカちゃん※1の投稿の立ち上げ時。キャラ案、企画、デザイン、イラスト等……全部ぼくがやって可愛くしないといけないと思い込み、完全にキャパオーバーになりました。
しかし、そんなぼくを見て周りの人たちが心配し、ミスのチェックや指摘、作業の分担など、できる範囲で支えてくれました。
例えばKさんが線画や色塗りを全部してくれたのもそのひとつです。それらを通して初めて「肩の荷を下ろしていいのだ」と
「一人で抱えなくていいんだ」と気づき、お任せできるところはお任せしようと決めました。
※1 本事業所の広報担当キャラクター
■ 伝言形式の指示しかできなかったぼくが変わった瞬間
最初の頃、ワーカーさんに作業についての指示を伝える時は「支援員さん、指導員さんから受けた指示をそのまま伝える」だけでした。
完全に伝言形式で「こう言われているのでこうしてください」としか言えていませんでした。
しかし、本来必要なのは一緒に考え伴走することだと気づきました。
・まず目的だけ伝え、やり方は相談しながら一緒に決めていくこと。
・ワーカーさんの意見や発想を取り入れながら進めていくこと。
この形に気づくまで、また時間がかかりました。
でも、色々とできるようになっていく過程で、「一人では絶対に到達できなかったところに、楽しみながら行けるんだ」と気づきました。それがとても大変だけれども楽しいという事に気づきました。
これは指導員をやるうえでの大きな気づきの一つでした。
■ 特に周りを支援できていないのでは?と思っていた過去
実は、ぼくは指導員として動けるのか自信がありませんでした。
理由はたくさんありますが
「ぼく自身のことだけで精一杯な時が結構あった事」
「当事者意識が強いわけじゃない」
「ちゃんと朝来られるかな…」
等々不安になっていた時期もあり、余裕がなく、正直その役割に沿った行動ができていた自覚はありませんでした。
しかし、ある出来事がそれを覆しました。
■ 卒業の報告をしたときに気づいた事実
朝礼で「今月末で退職し、イラスト制作の会社に就職します。」と話しをした日、在宅勤務でリモートで参加していたSさんがとてもショックを受けていたと聞きました。
実は、約1年と2ヶ月の間ずっと同じテーブルで作業していたこと、Sさんは途中から在宅に変わったことなどいろいろとありましたが、Sさんはぼくにかなり心を開いてくれていたようです。
Sさんにとって
・話を聞いてくれたこと
・頼ってくれたこと
・否定せず、型に当てはめず、ちゃんと向き合ってくれたこと
それらの一つ一つがSさんにとっての“大きな支え”になっていたと聞きました。
それまで感謝の言葉というものは、ぼくの心の中に溜まらず、穴の開いた器のように零れ落ちてしまっていた感覚がありました。しかし「いなくなると困る」「寂しい」と言ってもらえたとき、初めてその言葉が心の穴にピタリとはまった様な感覚がありました。
そのことが不思議で、初めの頃から考えると遠いところまで来たんだなあという話を、サービス管理責任者のMさんに話したら
「何言ってるの?(支援)できてるに決まってるでしょ」と言われた事も含め、ここでようやく
「今までやってきた事は確かに届いていた」のだと感じました。
■ 実際に働いてみてどうだったか
8月から週3勤務2日間は在宅勤務になった背景には、友人からイラストの依頼を頂き、さらに別の方からもまた別案件をいただいたということがあります。「今がステップアップのチャンスかもしれない」と思いつつも、この働き方を続けられるのか、生活面も含めて不安は大きく、慎重に考えていました。
その不安を相談したところ、「週2は在宅、週3は通所でやってみては?」という提案をもらい、まずは試すことに。
しかし、実際にやってみると、在宅勤務自体難しいことが分かってしまいました。
ライフワークに通っていた時は、飲み物を準備したり、席を立ったり、周囲の人と話したりと、自然と「適度な休憩」や
「切り替え」ができていました。
しかし家で作業するようになってからは、逆にハイパーフォーカス、いわゆる過集中という状態に入り、一日中集中しすぎてしまうようになりました。
成果報酬の案件にもかかわらず、依頼に対して常に150%の力で取り組んでしまったり、在宅なのに、気づけば就業時間が12時間を超えてしまったりしました。もちろん作業量はキャパシティオーバーに。
これは「頑張りすぎ」ではなく、「制御できない」という意味で、「自分にはまだ“人の目が必要”なんだ」と痛感しました。こればかりは努力ではどうにもできないとスパッと割り切り、フリーランスのように成果報酬で受けるのではなく、毎月安定した収入がある働き方をしようと方向性を切り替えることにしました。
そこからは、人に頼ることを覚え、必要なところで力を借りながら、「どこに気をつければパフォーマンスが落ちないか」も少しずつ理解できるようになっていきました。
頼り方が分かると、不思議と世間一般の人たちと近いパフォーマンスを出せる瞬間が見えるようになった──そんな成長も感じられた時期でした。
■ 最後に
(これからどんな風に生きたいかの質問をしました)
仕事に関して、就職先の仲間がスムーズに働けるよう全力でサポートしたい一方で、同時に“力を抜くこと”を学んで肩の力を抜いてリラックスしながら働きたいという気持ちもあります。
そして、これからの人生について考えると、実家を出て一人暮らしをしてみたい。できるだけ穏やかに、落ち着いた生活をしていきたいと、そんなことも考えています。
そんな未来を自然に思い描けるようになったのは、この「一年二ヶ月で自分自身が大きく変わったから」だと思います。
当時は外に出るだけでも必死で、髪も伸びっぱなしで、心身ともに余裕がありませんでした。いろいろ試行錯誤を重ねる中で、ようやく「人生がもしかしたら始まるかもしれない」と思えるところまで来ることができました。 振り返れば、ライフワークは自分にとって
「障害特性を壁ではなく階段に変えてくれた場所」でした。また
「困難を自分で乗り越えるための方法を、一緒に見つけてくれた場所」であり、
「自分の特性を受け入れ、理解できるようになった場所」でもあります。
以上全文です。
職業指導員として働き始めてからもそれはずっと変わらずでしたが、ワーカーとして働いていた時よりもやるべき事が増えたからか、一生懸命に頑張っているんだなあと感じる場面に何度か遭遇していました。
その裏で様々な壁にぶつかったり、悩んだりもしていたのだと代筆していて知りました。ですがBさんは様々な挑戦や行動した結果沢山の学びも得られた事を知り、それらを活かし良い人生を送ることが出来ると信じています。
これで終了となります。お付き合いいただきありがとうございました。

