私がライフワークを選んだ経緯

前編 成り立ち

人見知りの幼少期時代

皆さんこんにちは、突然ですが、簡単に僕がどんな人なのかの説明からしていきたいと思います。

僕は根暗です。初めての人とはすぐ話せませんし、目を見てなんて到底できません。

しかも人の目線が怖い。とそんなことを考えてしまうのは幼少期の経験からなのかもしれません。

ベタではありますが、親との確執です。父親にはかなり厳しく育てられたのではと思います。

父親は昔ながらの性格で”男はこうだ”とか、”男は厨房に立ってはならない”とか”人前では泣くな”とか”背中を見て学べ”という典型的な昭和の男って感じです。まっ今思えば僕が最初の子供で子供との接し方がわからなかっただけなんだとは思うんですが、当時はそんな父が怖くてしょうがなかったです。

父との確執

でもそんな父に一回だけ反抗したことがありました。僕の高校受験の時です。それはこっそり父には内緒で母や祖母のお手伝いで厨房に立って料理を作っては振舞っていました。内緒ですがこの料理、父も食べています。そんな日に限って「なんか今日のご飯美味しいな」なんて言って僕の心の中ではガッツポーズですよ。それに勘違いして「俺調理師になる」って言ったらかなりの雷とげんこつが飛んできました。

「お前は人とろくすっぽ話すことができねぇのに調理師だぁ、ふざけんじゃねぇ」と猛反対。

でも幸いの所母型の祖父がお金を出してくれて調理師免許が取れる高校に無事通うことができました。

高校の3年間は父とは話すことはなく高校の途中で父は単身赴任で茨城へ。この年から17年間北海道には帰ってこなかったです。なので、その年から父とは話せてなかったです。

病気

僕も高校卒業後、温泉ホテルの厨房に働くことになり忙しくしていた矢先、無意識に無理をしてたんでしょうね、冒頭で少し書いたのですが人と話すのが苦手だと人前に立つと、脈が速くなり・突然のめまいそして吐き気が出るようになってしまいました。でも幼少期から父から叩き込まれていた長男だからという某アニメのような考えが「これは気のせいだ、病気じゃないと」言い聞かせて続けているともっと症状がひどくなっていき当時住んでいた寮から出ていくことができなくなっていました。勿論寮なのですぐに上司が訪ねてきます

「いつまでそこでウジウジしてるんだ、ここを開けてくれないか?」

「ごめんなさい無理です。ごめんなさい…」

「そうか…」

そんなある日寮のチャイムがなります。

「おい、ここ開けてくれねぇか、怒んねぇからよ」

そんなこと言われても、数日間寮の部屋で引きこもりをしていたので人と会うのが怖い。ドアノブを伸ばす手も止まってしまいます。

「おっそこにいるのか?まぁそこで聞いてくれや。あのよおめぇのその感じってパニック障害っつう病気じゃねぇか?厨房に立ってるとき一瞬おめぇの事見たことあるんだよ。かなり辛そうだなって。このままじゃいけねぇって思うんだったら一回病院に行ってみたらどうだ?俺のそばにもいるんだよ同じ症状のやつが親戚によ」

しばらく沈黙が続きます。

「まっあれだ気か向いたら考えてくれよ。」

と言い残し上司が帰っていきました。それでも私は外を出ることができませんでした。

別れ

こんなことがあった数日後何も考えられなくなってきたときに一つの電話がかかってきます。

ホテルからの電話でした。そりゃそうです何日も無断欠勤してるんだから。でもなんか救われたような不思議な気持ちになりました。

「あっもうあそこに行かなくていいんだ。」

そこから事情を説明してやめることになりました。

一つのけじめとして何度も気にかけてくれていた上司の人にも話に行かなきゃと厨房に行きました。

たまたまそこにはいなく

あーやっぱりいないか、忙しい時間だしなと思っていたら

「おーこれたんだな、久しぶりだなっ!」と声と強い衝撃が背中にきました。

事情を説明するとなんと「そうか、そうか よかったな」と言って泣いてくれました。

本当に心配してくれたんだなと実感しました

実家に帰り母にも説明して家に入り早速病院の予約をして診察を受けたら

「パニック障害と少しの不安障害も混ざっているよ」との診断

ここから今にも続く闘病生活に入ります。

いやぁ 長々と失礼しました。

このような小説形式にしてしまったので全部で3つに分けて掲載したいと思っています。

ここまで見て少しでも気持ちが軽くなってくれたら幸いです。